悲劇のヒーロー 天皇賞春勝ち馬ライスシャワー

春天予想を的中させよう

ライスシャワーは1990年代前半の競馬ブームの頃に関東馬の雄としてファンの間で知られている馬です。
この馬の名前を広く知らしめたのが1992年のダービーです。
この年のクラシック戦線は快速馬であるミホノブルボンを中心に展開されており、マスコミやファンの注目も、このミホノブルボンが距離でどこまで対応できるかといった点にあったのです。
1600メートル、1800メートル、2000メートルと距離が伸びても彼の逃げ足が衰えることはなく、皐月賞を制し、続くダービーの2400メートルも勝ってしまいました。
そのダービーで16番人気の低評価を覆して2着に好走したのが後に天皇賞春を制するライスシャワーです。
ダービーで16番人気であったのは当然で、皐月賞8着、NHK杯も8着でしたので、ダービーでの好走はほとんどの競馬ファンは予測できなかったのです。
しかしこの好走を機にライスシャワーは一流馬へと変貌をとげました。
秋初戦のセントライト記念を2着に好走し、続く京都新聞杯も2着、そしてついに菊花賞でミホノブルボンを下し、G1馬まで登りつめました。
この年は暮れの有馬記念に出走して8着に敗れましたが、年明けは3月の日経賞を勝ち、4月の京都競馬場での天皇賞春では、メジロマックイーンを下して古馬のG1タイトルも獲得しました。
関東馬であるライスシャワーが関西の京都競馬場に乗り込んできてミホノブルボンやメジロマックイーンという関西馬の強豪を次々に倒すことから、一部のファンの間では「東の刺客」とまで言われていました。
ただし、この勝利を最後に約2年間勝ち星から遠ざかることになります。
G1レースでも、1994年の有馬記念の3着が最高の着順でした。
そして1995年に2度目の天皇賞春制覇を成し遂げました。
最後はステージチャンプの追い込みにあいましたが、ぎりぎり凌ぎ切っての勝利となりました。
次走は6月の宝塚記念に出走しましたが、レース中に故障を発症し、予後不良となって安楽死の措置が取られました。
ファンにとっては衝撃的な出来事でしたが、多くの名レースをしてファンを感動させたライスシャワーの記憶は今も競馬ファンの脳裏に焼き付いています。
ライスシャワーの主戦ジョッキーは的場騎手で、ほとんどのレースで彼が手綱をとっていました。
彼の死後、この年のJRA賞の「特別賞」が贈られました。
また京都競馬場の職員たちの発案により、翌年には京都競馬場内に記念碑が建立されました。